昭和54年3月29日 朝の御理解

御理解第八節
「子供の中にくずの子があれば、それがかわいいのが親の心じゃ。不信心者ほど神はかわいい。信心しておかげを受けてくれよ。」

 いかに神様が、「かわいい」という心情、親心をもって、思うて下さっても、もう、それで、おかげが受けられるということではない。心情、親心であって、ええ、「信心して、おかげを受けてくれよ。」とおっしゃるのですから、おかげは、信心して受けなければならん。いかに、親の思いが、つのって、その子供に、ふびんが、増してまいりましても、ね、それで、なら、おかげが受けられるということじゃぁない。ね。よく間違えるんですねぇ。うん、「『くずの子が、かわいい』とおっしゃるから、その、あー、くずの子になった方が、おかげを受けられる。」といったような、まぁ、表現をする方が、ありますけれども、そうじゃぁない。親の情として、ふびんさは、増しますけれども、おかげは、結局、「信心をして、受けてくれよ。」と、こうおっしゃとる、最後に、ね。「おかげは、信心して、おかげを受けてくれよ。」。ここで、親の、その、やむにやまれん、その心情を知ること。と、同時に、だから、どういう信心をさせて頂いて、神様も満足、私共も満足というような、おかげを受けた時に、はじめて、ええ、親も喜ぶ、いわゆる、「親と子とが、喜びあえる」ということになるのです。ね。

私共が、お願いをする、お願いをするということは、それは、もう、限りないことですし、ええ、私共は、願いは、いっぱいもっておりますから、ええ、願わなきゃぁなりませんですけれども、私は、願うからには、私は、その、「改まって願う」ということが大事だと思うです。ね。ええ、特別なお願いをする時にゃぁ、「また、改まってお願いに出ますから。」と、こう、人間同士でも申しますでしょう。ね。まぁ、場合にゃぁ、紋付袴で、襟を正して、お願いに行くという、ね、改まって、ね。また、手土産のひとつも持って、改まって、お願いに行くというように、この、「改まって」ということ、ね。ですから、あー、まぁ、一番、改まってということは、「自分の心の内を改めることが、第、第一。」と神様が、おっつしゃるほどしですから、ね。私共の、心の内を改めて、そして願う。そういう信心に、私は、「おかげはある。」と、こう思うです。「信心して、おかげを受けてくれよ。」ね。信心。ね。だんだん、神様を信じる力が生まれてくる。いよいよ、真心の追求をさせてもらう。信心。真心。いよいよ、わが心が、神に向こうていゆく信心の喜び。もう、限りなく、いうなら、しん、神心を、信心を、自分の心の中に頂いていくことを、もう、楽しみに信心していくと、ね。そういう、信心のひとつの段階というか、過程というものを追いながら、限りなく、おかげを受けていくために、願っていかなきゃぁならん。そこに、「(?かく)信心して、おかげを受けてくれよ。」。「ただ、参って来いよ。」と、「一生懸命、拝めよ。」と、なるほど、そこから、始まるのですけれども、それが、同じことであってはならないということです。

昨日は、竹葉会で、みなさんのお話を頂いて、まぁ、関心したお話ばっかしでしたけれども、なかに、福岡の伊藤さんが、あの発表しておられました。素晴らしいお話でした。それこそ、「信心、真心の一段目を、改めて分からせて頂いた。」という思いが起こるようなお話でした。うん、「長年、信心は頂いておりましたけれども、自分の都合のよい時だけお参りをする。『神様とは、自分の願い事を、述べたり、頼んだりするのが神様だ』というふうに思うておりましたから、ね、『当時の椛目にお参りをする』ということでも、『お参りをする』ということ事態が、『恥じずかしいことだ』と思うて、もう、人には、ね、その、『ご利益、もらいに行きよんなさる』というようなふうに思われたくないから、もう、できるだけ隠してから、人には言うわんで、もう、お参りをして、まぁ、もちろん、だから、お願いだけはして帰った。」と、まぁ、そういうところから、だんだん信心を、を、分からせて頂いておられる過程を、だから、ああ、こりゃぁ、あのう、昨日は、みんなテープに撮ってましたから、あの伊藤さんの話しだけは、もうひとつ、あの、「もういっぺん聞きたい。」というて、まぁ、申しましたことでしたけれどもですね。「信心しておるということが、恥ずかしいぐらい、自分が拝んでおる神様が、『ただ、ご利益を下さる神様だけ。』というよな頂き、あの、あの、間は、『どこへお出でですか。』と、『はい、ちょっとそこまで。』ぐらいで、『金光様にお参りしよります。』なんて、その、おかしくて言えなかった。ね。それが、ああ、だんだん、それこそ、のっぴきならない問題が起こって、『もう、見栄も外聞もない。』もう、一心に、一心にすがって、おかげを頂かなければならないことが起こった。そこから、『一心にすがる』ということが、『ただ、一心にすがる』ではなくて、『真心をもって、すがらなければいけない。』ということが分かった。」と、こう言っておる。ね。それから、いわゆる、真心の追求が始まった。真心の追求が始まったら、その、もう、「見栄も外聞もない。」と、言い、思うておったこと、事柄ですらも、「もう、どうでも、おかげを受けなければならん。」というものではなくなってきた。ね。「はぁ、これは、真心の欠如である。真心が足りんのだ。」と、その真心の、まぁ、追求をしていかれる、その過程を、まぁ、話しておられましたが、本当に関心しました。それで、だんだん、もう、お話をされる中に、うん、うん、御本部参拝のお話をしておられました。もう、ひとつ、ひとつの信心の段階という、その中に、もう、必ず、おかげが頂けれるお試しがある。ここんところを、繰り返し通っておられるようですね。例えば、御本部参拝でも、「親先生が、御本部参拝をされる時には、もう絶対、必ずお参りをする。」と心に決めさせて頂いた。もう、どんなことがあっても絶対。ね。その中には、「もう、いよいよ、今日は、参られん。金銭の上やら、また、体の上やらで、という時もありました、と。絶対と決めたら、ね、もう、それこそ、汽車ん中でも、あちらに着いてでも、もう、七転びするように苦しい時もありました。」ね。ちょうど、あの、近所に、近所っていうか、あのう、いし、あちらから参ってみえます、あれは、何とかさん。お話をしておられましたが、「今度の、御本部参拝に、私も、ぜひ、お参りをしたいから、あのう、あれに、○を付けとって下さい。」と頼まれた。それで、先日、参った時に、○を付けておったところが、「あんなに伊藤さん、お願いしっとったけれども、うん、とにかく、のっぴきならないことで、こうこう、こんなわけで、ええ、お参りができなくなった。」と言うて見えた。それで、その、自分の体験を話したと。ね。「『あなたは、その事柄と信心、神様と、どちらが、あなたは大事と思うですか。』というて聞いた。」と。「『そりゃぁ、神様の方が、信心の方が大事ですよって。』。『そんなら、それを取んなさることが本当じゃなかですか。』っちいうて、『はぁ、そうでした。』というて、いっぺんで腹を決められた。」という話しも、その話しの中になさっておられました。私、そういう話しを聞きながらね、「はぁ、真心とは、これだなぁ。」と思うたです。ね。真心とは、例えば、もう、清めた上にも清めて、ね、親切な心の、心がいっぱいで、ね、もう、清らかな、普通でいう、「私が、真心でしてあげた。言うてあげた。」といったようなものじゃぁなくて、真の心というのは、ね、これを、こうと決めた。それを、本然として分かった時に、ね、いうならば、「神様と、その事柄とが、どっちが大事ですか。」と問われた時に、「そりゃぁ、神様の方が大事ですよ。」とまでは、誰でも言いもするし、思いもするけれども、「そうだった。」と腹を決めた。その決める心が、真心だと思うです。ね。「おかげを頂いて、この頃では、もう、主、もう、それこそ、主人に、まぁ、ぬけずくごとして、お参りさせて頂いとったのが、この頃は、主人が、ああ、進めてくれるようになり、もちろん、ご主人も、『まぁ、難しいかろう。』といったような病気も、おかげを頂かれて、助かられたようなこともございました。ね。御本部参拝というと、『なら、小遣いをやろうか。』と言うてくれるほどしになりました。そして、だんだん、うん、御造営のことが、ああ、盛んに言われるようになりまして、ええ、それこそ、一心発起して、今、自分が、そのことに取り組んでおる。」ということをです、ね、話しておられましたけれども、私は、「信心して、おかげを受けてくれよ。」というのはね、そういうことだと思うんです。はじめの間は、金光様にお参りをいしとるということが、人にも言えないぐらいに、恥ずかしいことのように思うておった。ね。それが、なにか、そこにのっぴきならない、「もう、どうでも、おかげを受けなきゃぁならない。見栄も外聞もない。」と、一生懸命の思いができた時に、本然として、「このおかげを頂くなら、頂くためには、こりゃぁ、真心にならなければならない。」と思った。そこから、真心の追求が始まって、その辺の話しが、大変、素晴らしかったんですけれども、その、その真心を追求していかれる、その過程においてです、ね、やはり、お試しも受けた。また、おかげも受けてきた。しかも、信心の、その段階をおうて、それが変わってくる。ね。そして、その、「真心とは」ということが、だんだん垢抜けしてくるわけですけれども、ね、そん、○○さんに、御本部参拝のことを、まぁ、話された。そのことから、相手の、いうなら、真心を引き出してやられる働きが起こっておる。私は、もう、それを聞きながら、聞いた時に、「はぁ、真心とはこれだ。」と、自分、思ったんですけれどもね。ね。だから、結局、「信心しておかげを受けてくれよ。」というのは、結局、ね、自分の真心の追求です。ね。そん、真心の追求をせずに、「どうぞ、どうぞ」の追求ばかりをしたんでは、いうならば、ね、まぁ、地団駄踏んで頼むから、おかげもやらなならんけれども、「神様が、なら、喜んで下さる」といったような、おかげにはならないと思うですよね。神様の願い、思いとしてはです、それこそ、「くずの子ほうが、かわいい。おかげを頂ききらんで、くずくずしておる信者ほどかわいい。」。けども、いくら、ふびんが増したところで、それで、うんなら、おかげ頂けるというのじゃぁない。ね。それは、いうならば、親不幸。親に、ふびんな思いをさせるだけでは、ね。そこに、一心発起、もう、とにかく、願うならば、改まって願わねば。または、願うからには、真心で願わければ。その真心を追求して、ね、願う時に、そん、真心に対する、おかげであり、徳であり、力であり。そういう、おかげを受けた時に、ね、神様が喜んで下さる、「信心しておかげを受けてくれよ」というのは、そういうことではなかろうか。同じ、いつも、ただ、参って拝んで、「どうぞ、どうぞ」と願うということで、じゃなくて、「信心して、おかげを受けてくれよ。」。しかも、情念の点においてはです、「くずの子ほどかわいい」という、神様の、その念が、ね、これは、自分で、例えば、なら、くずの子があるなら、くずの子ほどに、ふびんが増すような、もう、それこそ、親の千万無量の思いという、その思いが、例え、あっても、そこに、助かりと?がりはない。ね。助かるということは、おかげを受けるということは、ね、教祖様も、だから、「信心して、おかげを受けてくれよ。」と、おかげを受けてくれた時に、はじめて、「神も喜びなんだ」ということになるのです。受けた者も喜び、与えた者も喜び。ね。そこから、いうなら、あいよかけよの信心も、また、育ってくるということです。改まって願うということ。ね。。真心で願う。ね。その真心の、これは一段目ですけれども、その伊藤さんの、昨日の発表の中から、私が、感じた真心、「真心とは、これだ。」。これが、みんな、欠けておる。ね。しかも、その真心の過程においてもです、必ず、引いたり押したりというように、ね、もう、「もう、いけない」と思うようなところもあるけれども、「そこを貫く、その心が、真心だ。」というふうに、今日は、聞いて頂きましたですね。どうぞ